幹部候補として採用した3人も、会社を去っていった
私は次に、後継者候補の公募に着手することにしました。
私の会社は、求人広告の代理業を生業としていました。人材採用を考えている企業に対して、求人誌への広告掲載を促し、企業と仕事を探している人をつなぐお手伝いをする仕事。
平成元年、30歳の時に設立し、事業承継を考えた50歳の時には、20年の年月が過ぎていました。延べ2万5000社(実質7500社)の企業のお手伝いをし、5万人以上の採用に関わらせていただきました。
その顧客資産を引き継ぎ、次の成長を一任できる人間。社内にいなければ社外から、との思いからの公募でした。
この段階でも、会社を売却することなんて、露ほども思っていませんでした。
3年間の間に3人採用しました。
採用基準は、同業、もしくは周辺事業で、営業とマネジメント経験のある人間――結果、おかげさまで優秀な人間と出会うことができました。
でも、私の期待値が異常に高かったことが災いしたのでしょう。3人のうち、2人の行動を空回りさせてしまいました。1人は期待値を越えてくれたのですが、コミュニケーションのギャップから、私との間に溝ができてしまいました。
・・・結局、3人とも会社を去っていきました。
自分の不甲斐なさに、心が押しつぶされそうになりました。
同業の社長たちの顔が頭をよぎります。
彼らには、後継者、もしくは幹部が脇を固めています。
(経営者失格だな)
コンプレックスと喪失感で、夜も眠れない日が続きました。
ある日、ふと、息子の笑顔が思い浮かびました。
(久しぶりに会おうか)
私は息子に連絡することにしました。
息子の言葉に、目が覚めた瞬間。
「会社を継ぐ気はあるかな?」
なじみの居酒屋に息子を連れて行き、頃合いを見て、私は唐突に息子に話を持ちかけてみた。
息子は27歳。大手メーカーの関連会社に勤めている。この前、彼はつき合い始めの彼女を紹介してくれたばかりだ。
彼は、神妙な顔をして、しばし沈黙した後、
「やりたいけど、俺にできるかなあ」
と、自信なさげに答えた。
私のDNAなのか、彼は人材採用の仕事に興味を持っていて、大学卒業後、一時期、広告代理店に勤めていたこともある。
それもあって、話を持ちかけたわけだ。
でも、合計5人の幹部社員が去り、私は焦りから、彼を最後の砦にしようとしていた。
別れ際に、息子はこう言ってきた。
「・・・どうしてもというなら、親父の会社を継いでもいいよ」
私は、その言葉に殴られたように、大きなショックを覚えた。
私は、実に浅はかな考えで息子に話を持ちかけたことを一瞬で後悔した。
息子を後継者候補に指名してみたところで、これから入社となると、社員同様、いや、それ以上に育成に時間がかかる。社員の反発も予想される。
それに、せっかく大手関連企業に転職できた息子に、私のわがままから、安定したサラリーマン生活を捨てさせることになる。会社が将来どうなるか保証もできない。15年前に別れた妻はどう思うのか。わざわざ苦労させるには忍びない・・・さまざまな思いが去来し、今更ながら親心が顔をのぞかせた。
(しっかり考えた上で、声をかけるべきだった。いや、考えたら声をかけなかっただろう)
早くから息子との間に同意形成ができていて、経営者の道を歩かせるべく育成を始めていたのならまだよかっただろう。
父親が息子に無理難題を吹っかけている構図が浮き彫りになった。
「・・・どうしてもというなら」
そう言わせた息子の苦心は、いかばかりだったか・・・。
私は息子に頭を下げた。
私はどん底状態にあった。
後継者候補が5人去り、息子を苦しめた。
後継者は、5~10年かけて磨き上げるか、大きな投資をしてヘッドハンティングするか――どちらにしても、強い覚悟で臨む必要があったのだ。
会社を設立して23年。私は、今までの中で一番深い谷に落ちていた。
そして、仕入先から大きな要求が舞い込んできた。
私は四面楚歌とはこういうものだという経験をすることになる。
でも、思いがあれば、人生悪いことばかりではない。
私はある二人の人間と改めて出会い、今までは考えてもいなかった会社売却の道を選択することになる――。
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